俺の友達に人種差別被害妄想な奴がいるのだが

彼の肌は確かに他の人より多少黒ずんでいる。

そして彼は自身が嫌な目に遭うと「俺って黒いやろ?だから」と何でも肌の色のせいであると責任転嫁をしてしまう。そうすると何か嫌な目にあって彼に困った人でも人種差別をしていると看做されると怖いので彼には優しくする。だから彼の悪癖はなおらずかえって傲慢になっているのでまた用事のない時は遠巻きに仲間はずれにする。彼がそれに気づくとそれも差別であると主張する。無敵のループである。

俺はこれをどうしたものかと案じていた。実は彼の家はカトリックで、姉の子供つまり甥っ子たちが引っ越しを理由にカトリック幼稚園に通うようになると、姉弟で「バカ!」と罵り合うようになるという事案を見た。もともとマタイの福音書などでは親族同士に罵り合うのは不幸のもととされているが、日本の仏教の坊主が庶民に菜食をすすめ自らは肉食である宗派があるように、この地域のカトリックも聖書の有り難い教えは内輪にして信徒には反対のことを教えているのかも知れないなと思うようになった。甥っ子たちも外でよく遊び小麦肌に焼けている。

しかし義兄と姉は親馬鹿で、子供の言動をしつけようとせずに「バカ」もまら彼らが言うと愛の言葉であるとして甘やかして育てていたようである。俺は案じて「そんなこと言っちゃダメ!」とは言ったものの、まだ子どもたちにはその道理は伝わらず、なんか幼稚園でみんなしていることの真似をしたら不思議と叔父さんが怒った程度の認識であろう。

そう考えると件の彼も何もかも肌の色のせいにしてしまうという責任転嫁も無理はない。だんだん疎遠になっていっているので、放って置いたら害はないが、少年期からの縁が切れて他人同士になるのも何処か寂しいものだ。 

まあ、この文章の思想の根底には本当の人種差別が眠っている。それは肌の色に起因するものではなく、祖先からの生活圏の違いによる文化の違いが共通語によって交流を持つ時に意図的に逆さに教えて意地悪をした悪い伝道師の術が現代まで根深く残っているからだと俺は考える。人種が違うと言葉の意味が違うというような文化的差別だ。

しかし、そうして差別しないと文化的であるとか知的生産の仕事を異文化圏から奪われるリスクがあるので、既得権を守るためにはその意地悪は必要である。下手を打つと有色人種の管理下のもと白人が農奴と化してしまう。しかしそれは立場の逆転であって公平とは言えない。公平とは仕返しのことではない。

持てるものの役割として公平に持たざる者に分け与えることは理解できるが、公平を訴えた有色人種が持てるものとなった時に本当に持たざる者に分け与える損な公平を受け入れる素地があるのかということが俺の疑問点だ。男女平等に関しても、女のほうが勝ちすぎる不公平な言い分としての女性の権利に何度もうならされた。

差別が良くないという風潮のもと被差別を理由に無敵化する人というのは一般的な問題だ。だが、そもそもが公平を目指す考え方でなく、利己の幸福追求という視座に立てば不利な時は公平を訴えて有利な時はそれを退けるというのがゲーム理論的には合理的なのだ。合理的ゆえに理解できて、理解できるがゆえに出来れば関わりたくないとも思う。

俺は差別を受けているわけではないのなら、差別をなくしたいなどとお節介を焼く必要もない。つまり出発点が非合理だったと反省して今日の話はおしまいとする。

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