肉体は精神の牢獄

夜中に突然目が覚めて、自分が小さな檻に入れられているような感覚に襲われ、ふとその格子の外まで気持ちをやるとその外側にも自分のいる檻より少し大きな檻があり、無限に入れ子になる幾つもの檻の中に閉じ込められたようなそんな気分がした。

「人間は光の檻に閉じ込められている」と物理学とか電子工学を学んでから実家の寺を継ごうとか言い出した友達の言葉を思う。気になって読み返すとプラトンだ。「肉体は魂の牢獄」

それはプレイステーションPS2ペルソナ3(P3)にも散りばめられた暗喩かも知れない。直接その言葉には出くわさないが、哲学者の名前などがゲームの随所に散りばめられ学んだことが想起させられる。俺のお気に入りの小説は哲学的な言葉が多いのだが、知り合いの爺さんが「読んでもつまらない、訳のわからない適当な文章に哲学者の名言をコピペしただけみたい」だと話していた。分からないというのはこうも寂しいものかと思って腹は立たなかった。

まあ、有り体に言うと現代社会は法治とともに罪人を許すまじとする他者からの管理の目が行き届いていて、自由になっても犯罪はしちゃならない。犯罪をしたら、それがバレないようにどこか後ろ暗く暮らすものだろうし、そういう気負いがなくても肩身の狭い世の中、知らないでやってしまった人でも法に触れて露呈すれば逮捕される。そして犯罪者になるのが怖くて恐恐と暮らしていたら、それは善人という名の心の檻の中なのである。

だが、それらの全てが解き放たれても空が飛べるわけではない。飛行機やヘリコプターで飛んだら、傍目に浮いているが、コクピットとか乗客席に縛り付けられるわけだ。車も然り。

養老孟司は「人間は脳でどれほど考えても結局は筋肉を動かすことしか出来ない」と言った。

お金の不自由も感じている。銀行預金はあるが、資本金として積み立てた貯蓄なので心理的におろせない。証券会社の口座からは小口現金が引き落とせるが、手数料が案外高いしそれがいちばん割得になる額でドカット引き落とそうとすると引き止められる。俺の金ではないのか。

日々の節約などでお金を寄せたつもりが、いつの間にか携帯の電話料金が高くなっている。プランを見直して基本料金などを安くしたのだが、用事で電話をかけると「お待ち下さい」と言われてオルゴールを聞かされ、待たされている間にカケホーダイをやめた電話代がかさむのだ。

部屋には本棚があって、楽しいから読んでいた本がいつしかとても割安に感じ、どんどん買って積読すると、ついに読みきれなくなった。レコードもたくさん買ったが、新譜はネットで届く。そして自分のお気に入りだった曲たちは全て若いシンガーソングライターのカバー曲になっている。漫画雑誌も積んでいるが、部屋の隅にたまって捨てざるを得ないし、古いものを読み返すと大筋は覚えているが絵のひとつひとつまで鮮明に覚えているわけでもない。

何となく中島みゆきの「ヘッドライト・テールライト」が流れるTV番組を思い出す。クルマはかつて富の象徴であった。戦争が終わってトラックやバスなどの車両から富裕層のマイカーに路線を変えて自動車メーカで国は支えられてきた。家には便利な家電があり電気で大抵のことは終わる。しかし家の外に出て車に乗っても前は前の車のリア。止まろうにも後ろにも車がいる。それでもドライブが趣味だと思えるだろうか、と問いかけても分からない人もいるだろうが。暴走族が道の空いた夜中にだけ自由を見出すのもペルソナ3の題材にもなっている。

だからといって田舎暮らしが自由とも思えない。自然に囲まれた恵みのある土地は原始的な労働に時間を追われるものだろう。土地は割安だかタダでもない。全て合理的な損得により均衡点に価格が設定される。それでないなら油断ならない騙し合いの時代に逆戻りだ。

この檻から出る方法は死しか無いというのはひとつの落とし所ではあるだろう。既にありとあらゆる物の考え方が世の中の何かと繋がったとしたら、万物は流転するわけで巨大な回路のようなものになり回り続ける。果たして宇宙に出れば出口はあるか。そこは想像の産物だと思われるかもだが、人間は想像と言っても見たもの聴いたことを組み替えることしか出来ない。

しかしそういう風に内向的になると、檻の中を窮屈だと感じず、心の中の小宇宙も案外と広々としていることにまた気付けるものだ。この檻の中で出る鍵を探すより過ごすことを考える。

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