「結果の平等」のパラドックス

 こうしてブログを書いていると、読んでくれる人がいる。だが、世の中にはアップローダーとダウンローダーがいる。もちろん、アップローダーとてダウンロードをすることはあるし、ダウンローダーとてアップロードをすることもあるかもしれない。そうすると、アップとダウンの仕事量や損得でそれを測る経済のような問題になるべきだと俺は考えている。

 だが、俺がこうしてブログを書いても、キーボードで打つ以前に勉強したり考え事をしたり、文字にする以前に俺の思想があって、アウトプットとしての文字は俺からのインプットなのである。

 ここに、結果の平等を主張して、こうして上段から言ったような文体の活字を勝手に読みに来ているくせに、なぜ儲かるのかとか、プログラマーなら何を計算していて、その結果のデータを平等によこせ、というような筋でマウントを取り返そうとする者がいる。

 俺はこう返した「結果の平等ばかり主張するなら、俺がこの打ち込みの仕事すら放棄しても結果の平等としてメシが当たるのか」と。俺は相手の仕事は知らないが、それで黙った。

 結果なわけだから、人間は何も実など結ばない。実を結ぶのは植物だけだろう。ただ、それが仕事の完成系の例えで良いのなら、俺はこのブログだけでも無償でアップロードしている。

 この活字を主体としたブログサービスを利用して、広告欄を貸し出して収益化したのだ。

 だから読んでいるということは電話代を払って俺のブログにアクセスして、読み取っているわけだから主語はあなたにある。2ちゃんねるに腹を立てているのも、それが公序良俗に反しているとして、受け手が腹を立てているという話ではある。

 ただし、世の中には放っておいたら済む独り言をわざわざ誰かに宛てて伝えるような人がいることも関係を複雑化させている。そのビリヤードの結果、球が入ったところが悪者だ。

 結果の平等を主張する人は、平等を持ち込む以前に何を基準に善悪や損得を決めているのか。その決め方の切り口が俺から見ると独善でしかないように見える。

 「面白いものを書け」と命令するのなら、自分で面白いものを書いて自分で読めばいい。少なくとも謙虚に「書いてもらえますか」と出られたら、相応に俺なりの仕事は返すが、ネットには多分俺の利益にならないところでお金を払ってお客様体質になった人が勝手に俺を売り手だと決めつけて金も払わず上手を取ろうとしてくるのだ。

 売り物のコンテンツが欲しいなら、お金を払って自分で買ってください。それが国民が平等に守られている六法のひとつ「商法」のルールではないでしょうか。

 ただまあ、コンピュータの進化に多数決から議会で決まる法律のアップデートは追いついていないとは思う。悪いことをしていないのではなく、ネットでは良いと悪いを決める基準が法律にまだ記載されておらず、アクセスした人の主観で善悪を決めている節があるんだ。


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