おとうふ

 宮家でありながら自意識としては底辺。育ちに問題があって、貴族社会の逆言葉を使った謝辞のやりとりと言葉の元々の意味が正しくアナライズできていない問題。

 小学校でも「あほ」とか「ばか」のような語は慎むべきであると先生が注意するが、そうしたからといっていじめが無くなるわけではなく「お宅」という相手を差す普通の語が突然に用例によって「オタク」という差別用語になってしまうものである。

 関西ローカルではあると思うが「3の倍数と3が付く数字を言うときだけあほになる」というネタをテレビでして、それから「さん」が隠語になったこともある。

 他には「こども」は普通の語だが、幼少期少年期から青年期までのモラトリアム人間にとって体は大きくなるが社会に認められていないものに「こども」というとやや侮蔑の意味を含むのだが、それがだんだんと低年齢になって子供でも「こどもじゃないもん!」と怒るようになったりするのだが、そういう時に寿司に連れて行って「はまち」を食わせて周りはコソコソ笑う。

 それで、今朝は牛乳配達のおばちゃん、もうおばあさんだが、4本の牛乳瓶とともに紙パック入りの「雪とうふ」なるものをおまけでくれた。つい最近まではそれがコーヒー牛乳で、コーヒー牛乳が子供であることは子供でも分かったのだが「雪とうふ」なるアイテムが一体何を指すのか。うかうかしてはいられない。

 そうすると、最近では「高卒」とか「専門」ももう、学歴を指す語ではなく単に「ばか」の隠語でしかなく、それで俺がいじめを苦にして引きこもると解決するかというと本当の子供が割を食うだけの話なのである。

 鈍感というか、さっぱり知らないと気にならないものだが、ひとたびそれが自分を蔑む語であると解釈すると、もう世の中に飛び交う語がすべからく軽蔑の意であるように思えて、しかしひとたび自分の地位は低いのだから身分の高い人との付き合い方は変えるべきであると認識すると、そこまで気にならなくなった。

 身分が高いことを示すためには身分の低いものが必要なのだ。俺は公平というのは身分の低いものが身分の高いものを騙す語であるとブログで訴えてきたが、身分の高いという自覚のあるものはためらうことなく蔑む語を使うものであるから、身分の低いうちは公平を訴えていたものが大学を卒業して公平を訴えるより蔑む語を使うようになったことでひどく裏切られた残念な気持ちになったものであるが、ことがゲームであると考えると、適切に有利になるように手札を切っているのであるわけで、負けたわけだ。

 負けを認めたずぐは恨めしくて殴ってやりたいとか、殺してやりたいとか、過激なことを考えたものだが、今は引きこもりなわけで「関わらない」という立場を取っている。だが、牛乳配達とて仕事であり、俺はいちどコーヒー牛乳の件で紙パックの牛乳をスーパーで買った方が安いからと断ろうとしたのだが、そうなるとお命頂戴なわけで。

 嫌味や皮肉は板についていて、それでも商売をしてお金をいただいてやりくりしている町民とどう付き合って暮らしていくか。

 ちなみに朝から近畿大学のサイトを見ると動画で大学紹介の館内案内が流れていて、学費はざっくり4年で600万円超であった。俺らの時は300万円くらいだったかなと記憶しているが、地価や設備費の変化でやっていることは東の帝京大学とそんなに変わらないかなと思う。学力ランキングで見るのではなく、スポーツ強校で設備費の高さからモノの成り立ちより出来上がった設備を買った後のハウツーを学べる。

 そりゃ、買うわけだから作る方を下に見る精神性がそこで出来ていくのも分かるし、今の俺にだって600万円は恐ろしい大金である。受験競争の間は偏差値の低い大学であると蔑まれても、入ってみればお金がいっぱいあってモノを買う側の身分なわけだ。

 そうすると、精神構造が何となく推察できる分、身分の高い人だとして振舞ってくるなら、こちらが学ぶべきは身分の高いもの同士の嫌味の言い合いではなく、身分の低いものなりの騙し方や生き残り方なのだろうなと思う。

 民主主義が成立する過程で、昭和には戦争が起こり、平成天皇は「実るほど頭を垂れる稲穂かな」の句を詠んだ。令和はどういう時代なのだろうな。おとうふのひとつも無駄にしないという貧民根性で生きているが、もらえただけ得と思うのは紙パックよりもともと高いだけ騙されていて、しかし断る理由として「紙パックの雪とうふを余計に持ってきたから」では意味不明で、そこらへんを論理的に説明するのが高校古文のような学であり、そういや古文は苦手だったよな。


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