「実るほど頭を下げる稲穂かな」は行為善という話

 認めたくは無かったが、宮家というのは善では回らず偽善たるべきかもだ。

 神への信仰は心の中にこそあるべきで、その胸中をはかる術はなく、善行という客観的な観察可能行為において善悪を問うという立場を人が取る場合に「頭下げときゃいい、こっちのが賢い」という思想が「実るほど頭を垂れる稲穂かな」には認められる。

 これ、平成天皇、令和上皇さまの句なんだよな。そりゃOficial髭男dismの「Pretender(偽善者)」のほうが世相を良く切っているよ。税金もらえなきゃ宮内庁だって仕事できないわけだからな。

 ただ、詐欺師がいたところで「騙されてやるのが善」「善人なら騙される」というのも悪いけど行為善の範疇だ。善は善たるがゆえに善の輪の広がりを求めて悪を断つその善悪は相手の行為ではなく信仰によってのみはかられるとすると、他者の善悪というのは信仰の上で問題はなく、ただ神を信じ祈りを捧げて生きるだけで善なのである。

 まあ、そうすると僧侶というか神父にも坊さんにも良い坊さんと悪い坊さんはいるが信じて祈る人が善という当たり前の信仰で良いと思うんだよね。


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