攪拌機の定性的制御という無意味な人生だった

 まあ、中学で出会った格闘ゲームストリートファイターIIは良かったんです。

 自分のお小遣いと言っても祖父母からもらったもの、メシは家で出る将来と言っても何も考えておらず、勉強は落第しない程度に、不良仲間とゲーセンで遊んでいたわけで。そのへんを今更悔いて「もっと勉強しておけば」なんて言って、そう思った時からでも勉強はすれば出来るものと思っていたのは20代から30代まで。40代になるとその「今からでも」がどんどん「何をいまさら」になって行くわけです。今までの人生とこれからの人生を天秤にかけて釣り合うくらいの歳ですからね。

 確かに勉強は良いことかも知れませんが、10代の自分にとってもギャンブルだったわけです。自分の人生はどうなるか分からない。勉強しても病弱だったので若死にするかもしれない。そうすると、楽しいことが出来るうちにしておいたほうが良いかも。そんな思考回路だったかもしれません。

 それで昨晩はディープマジックというトレカの攻略本という馬鹿げた本を読み直し、今朝からは物置をガサゴソと、まあアメリカ遠征に行った時のパスポートが入ったポーチが行方不明で時々探すのですが、今日は「このへんなら」と思ったところを探して見つからず、代わりに古い本が2冊出てきました。漢文と数学の再勉強に買った本。

 そう、今は暇して勉強していますが、サラリーマン時代には新書を読む勉強法でした。そんなこともあったなと、振り返ることの少ない時代ですが、自分の人生を振り返ると言ってもよく思い出すところと忘れているところがあって、自分史的につらつら書こうとするならまず歴史の年表のように漏れなく並べるだけでも相当に難しい。だから手帳や日記をつけておくことには価値があって、3年くらい前からそうしています。ちなみにこのブログは20年です。

 ゲームというのは相手がいて、暇な時間を有意義にするためのレクリエーションであるというのが現代的解釈ですが、古くは占いであったり軍議であったかもしれず、期限も確かに分からないのにそれ以上歴史を語っても仕方なく、それより現代のゲームはテレビゲームの代名詞であり、その起源はPONなどの対戦型テーブルゲームなわけですが、そういうデジタル式以外に機械式のエレメカもあり、その典型的進化がパチンコ、パチスロなわけです。流行ってますね。日本中のいたるところにあるように思えます。

 それらのゲーム機はつまるところパチンコ玉やスロットリールの攪拌をして、当たりとハズレに仕訳けて、勝敗を決めて配当金を返す仕組みなわけです。それらはごちゃまぜになるから、当たり外れが読めなくて意外性があって面白いものであって、それを必勝法の名のもとに攪拌の定性制御をしてしまうと、お金が減るか増えるかに二分されて、減るなら損で増えるなら得だと一見思ってしまいそうですが、増えると言っても丸一日腰や背中を痛めながら台に座って店番よりも少ない給料でゲーム台が勝てる台であるという広告塔のような役割を必ずもらえるという保証も無しに自己資金ですることになるわけです。

 従って、勝ち方があるなら教えて欲しいという旨の質問は分かるのですが、そのためには撹拌機の攪拌機構を全てあらかじめ理解する必要があります。ただ、現実的に全て制御できるI/Oとはなっていないので、要所を抑えたら、あとは当たって砕けろでその時には確率と統計の知識が役に立つこともあります。まあ、そんなに難しくなく出玉を毎日勘定することが統計の基礎であり、確率としては勝っているお客さんと負けているお客さんを比べたら分かることではないでしょうか。

 トレカの場合はカードのシャッフル(繰る行為)が攪拌ですし、ストリートファイター系は攪拌と言ってよいのか多少乱暴に持論を展開すると、相手が人間の場合にどんな思考をしていようが人の頭は読めないという視座に立つと相手の操作がすなわち攪拌行為なわけです。ロジカルシンキングは結局同じ論理を取られると読まれるため、時にロジカルな最善手を裏切る戦略が有効になりますが、それは裏読みであって論理的最善手である期待値的な根拠からすると悪手になります。ただ、悪手でも当たりは当たり勝てば官軍な世の中ではあります。

 どうして唐突にこんなことを書き始めたかというと、京都大学の社会人入試の願書が研究論文を出す博士を目指すものとして在学中の研究テーマを先んじて大学院に提出して選考されるという入試形式なのですが、自分のテーマを1200字の紙三枚に頑張って収めようとしてロジカルに考えていくと、最初に書いたように撹拌機の定性制御ということでファイナルアンサーだったわけです。

 


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