テレビという政策

 宮本武蔵のような文武両道が語られた時代もありながら、俺の育った現代では一念専心が尊ばれる。何故か。文は武を治めるためにあるものなので、文を取るには武を捨てねばならず、武が立つなら武断によって好き勝手に振舞えばよく、武道の心得というのも結局は武を磨き合う中で勝ったものを抑える文の役割を担っているのである。

 日本は戦国時代から江戸末期まで文治政治であったが、黒船来航から鎖国、開国を経て航行技術の発展した西洋と対峙せねばならず、西洋が武断政治であったとまではいわないが、少なくとも日本まで来たものについては銃を構えて来たものだろう。

 相応に、清国、露西亜、米国などと戦争を交え、その後に「戦争をしない国」として武断のやりようが無い国になったとも考えられるが、内政面では警察が銃の所持を認められ、武断の側面を保ったまま文治を目指して義務教育が敷かれたのである。

 この点、進学率の上がった若年層の民度は高く、争いごとを社交で解決しようとする向きは見られる。

 だがしかし(お決まり)俺の見てきたゲームセンターという無法地帯はまだまだ武断の余地を残し、脅迫や恫喝によって勝手なルールを飲ませて100円玉を取り上げるという混沌とした世界だったのである。歳を食って物の分別が付くとおかしいことを言われているのは分かるのだが、その右手には棍棒が構えられている。おかしいと思っても逆らえないのだ。対して、自分が年長者となった折に慣習的に上から言われたことを下に強要しようとしても、こちらが棍棒を構えないもので口答えが返ってくるのだ。

 それはそこで保留して、では日本はどういう政治なのかというと、ひとつ技術立国日本というNHKのコピーが思い起こされる。本では無くテレビかよと思われるかもだが、異国と戦争をする手を無くし、属国として畑仕事をする以外に、モノを作って売るということに国民総動員で従事するという旗色が揚げられ、それで物質的には豊かになった。

 そしてその上で、各家庭にテレビジョンが普及して、国民が退屈しないように娯楽性を担保しながら、様々の言論が交わされる様を放送して、それが世論を形成して政治となっている社会なのであろう。字幕も出るので、これが疑似の文治である。

 喚起すべきは俺がゲーセンで経験したように、皆は構えられた右手の棍棒を恐れるあまり暗に飲んでしまった約束を、論理学の論拠としてしまっていないかという事である。出発点からして、武断では無いが恐喝から始まっている論理なのであろう。恐れず立ち向かえるのはあるいは勇敢に見えるかもしれないが、その棍棒は振り下ろされることは絶対にないという確信は裏切られた瞬間の死と隣り合わせなのである。

 このあたりの論理が戦争世代の爺さんの言う「平和ボケ」なのであろう。「平和ボケ」のひとことでは全く意味が分からなかったので、自分なりの考えをまとめました。


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