コンビニに赴きカードを作った件

 正体不明としてネットの匿名掲示板に罵詈雑言を書き込まれ、精神病になるほど苛まれたのはひとえにウインドウズ95のインターネットが流行しだした頃にペンネームでウェブ日記を始めたことが原因であったことは間違いない。

 今では正体を知っている方もおられるかもだが、街ゆく人は見ず知らずでこちらだけ正体を明かしていて不特定多数から観察されるというのはとても生き辛いことではある。家から出てコンビニまで行き帰るまで俺は徒歩なのだが、車でつけ回されて路地裏に逃げると出口でも誰かが待っている。

 先日のエントリーで触れたが、物書きであるとか有名であるというほどでも無いが、ウェブに名前があることが何らかの相手方の不機嫌の原因であり、かつてそれはゲーセンでのストリートファイターでの勝敗でこちらが負けることでヤクザ様ご一行ご満悦、それでこちらが無名になるとSNSなどが遮断され、彼らがゲーマー世界を形成して武道の稽古のように若者や少年をだましてアガリがあれば円満解決。

 その意味では結局どうやってカネが儲かるかというロジックは極めて重要で、カネのためではないことが分からないのは発想が貧しいというのはつまるところカネのため以外の事をする生活の余裕があるということで、カネがあるという事なのである。

 そのためこの暇人ブログもアフィリエイトになっているというのは広告収入のために貧乏がしている仕事なんですという建付けは重要で、そんなやつが銀行からカネを下ろして毎日家にいるのにスーパーで弁当やパンやポテチをカゴいっぱいに買うと「何故カネがあるのか」という素朴な疑問を周囲が持ち、行動観察に出るのも納得できる。

 スーパーでシャケ弁を買うと「それがおいしいんだな」という理解となり、同じものが求められる。又吉直樹行きつけの喫茶店みたいのも、街中で喫茶店というものが比較的に失礼を承知で言えば暇な仕事だから歓迎されるわけで、作家先生御用達のスーパーマーケットみたいなことになってくると、ただでさえ忙しい昼時のスーパーは迷惑であり、とかく俺の個人情報が明かされることが俺の迷惑だけではなく周囲の迷惑になるなら考えものだけど、こうして日記形式で書き綴ることで精神病ってどうやったらなるのかと言う事の罹患証明も兼ねているようである。俺のブログを読んでどこかの精神病院の先生に同じように話せば晴れて病人である。だいたい、古典哲学とかにハマった人がなるようだ。心理学とかからなる人もいる。

 それでまあ、無事にナナコカードを300円で作ってきたわけだが、部屋に帰ると外の料理屋を通りかかる客が店の娘さんを相手に「今日はセブンイレブンに行ってナナコカードを作りましたって書いたらいいんやろ?」と聞こえるように大声で言って、ウザい。

 人間、しようと思っていることを読まれて人に先に言われるというのはウザく感じるものなのか、俺だけなのか、普通はそもそも誰か個人がそこまで他人に行動観察されるということが社会的にあり得るかというと珍しいことだと思うし、世の中の事が全て知りたいというような征服欲がもし誰かにあっても、人間の知覚全てもってして視覚聴覚味覚臭覚触覚でもって世界の全てを理解できるかというと、客観的に物事が止まっている歴史的名所などを作文化して、名所めぐりをして想像を巡らせることで支配妄想を満たしているだけであって、大阪のスーパーマーケットの昼間の様子などは定点カメラで観察してもそれだけで理解の難しいおばちゃん同士の商品の取り合いがある。

 まあ、俺んち奈良なので、スーパーの弁当でも譲り合いがあるし、俺が大阪で病気して今の家に戻る前に大阪のスーパーに夜行くといつも半額のハンバーグ目玉焼き弁当がひとつ残されていて、いつも最後のひとつを食って生きながらえていたから、昼間は激戦のようで大阪でも俺は多分行動観察されていたし、だからしてハンバーグ弁当がひとついつも残されていたのだとは思うのだが、今回というか最近については残り物の半額弁当ではなく昼間の作り立てのおいしい時間に金銭的にも余分を持って行くので、シャケ弁のシャケの色つやとか、カツ丼が端切れかヒレカツかみたいなテレビで良くある「野菜や果物のおいしいところは」みたいな問題は弁当にもあって、はじめ売れずに並んでいたものでも、おいしいところを知っているものが並んでササッと買ってしまうと、どれを取ったか他の客も学習して先回りしてササッと取ろうとするのである。

 奈良は観光が主要産業でのどかであった時代はジワジワと大阪の成金が奈良に家を買うことをステータスとしはじめて国盗りをされそうになっているのである。

 まあ、その意味では移住人気ナンバーワンは静岡らしいが、不動産屋さんのまいている情報なのか、本当に住みよいのか、写真写りの景色が良いだけで住んでみるとどうなのかとか分からない部分はある。

 ゲーマーつながりでも静岡にひとり移住していて、金持ちで周りが友達のよしみでのお恵み頂戴で特に一番貧乏だった奴が俺よりもカネになるからとその人に寄るようになって、厄介払いが出来たと今では思うが、最初は「アイツモノ目当てだから付き合わなくていんじゃね?」ってこの触れ込み善人か悪人か自分でも判断に迷うのだが、当人はもともと俺にゲームで負けて暴言を吐く側だったのが、俺が負けると俺の事も可愛がってくれるようになり、人間関係ってホントに良く分からないところで勝ち負けが反対だったのよね。

 俺の部屋からもトレカのダンボールと格闘ゲームアケコンが無くなったら、トレカ友達も格ゲー友達も疎遠になり、ゲーム代が浮いて暇になって貯金が出来て万々歳かというと、友達が来ないで客も来ない店で昼間にスーパーの弁当など買うと嗅ぎ回られるという最初に書いた通りに生きにくさは感じている。だが深夜に半額弁当を買いに行ったりカップラーメンで過ごしていた時は泥棒の濡れ衣を着せられたり警察に職務質問されたり、子供の持つケータイでイタズラ通報されたりで、今の方がマシではある。

 結局のところ隠棲するなら自分とは別の人間について書にするとか、その究極系がいない人を作る創作であり、自分の事を自分で書いてルポにするという生き方がそれがウェブで他人から読める形になっているという新しい社会実験のような体を取っている。

 まあ「今日はセブンイレブンに行ってナナコカードを作りました!って書けばいいじゃない」のおばさんもまだ顔は分からないが、多分ブサイクだろうと思って無視することにしたのだが、登場したら読んで喜ぶかもしれないのでそこまで考えたら美人とお世辞を書くべきかもしれず、とかく車道と店しか入れるところのない城下町跡というのは日本的にはどうか知らんが世界的にはトルコあたりにも似たような街があるらしい。

 同じように薬局が多く、車が通るギリギリの幅なのは車に合わせて道が作られる以前から石造りの街並みがあり、そこに合わせて乗用車の車幅が出来たのではないかとも考えられ、日本ではポルシェなど田舎でないと大きすぎて乗りづらいということも乗って分かったりしたのだった。

 その意味では大阪でコペンに乗っていたゲーム企画の友達はあれはあれで賢い選択だったのだろうなと思い出すのである。周りに賢い奴が多かったのは俺が経済の関所となる高給取りであったからで、貧乏になるとばらまく余裕もその対象となる消費財も無く、お金を貯めて家でじっとしている同士の街中で、街を車で徘徊する暇人の観察眼に留まり、普段使わないお金を何に買うのに使ったかスパイするというのも分かる話だ。

 まあ、お金のためではないというのが分からず何でもカネに換算するというのが貧しい発想であると憐れむのも分かるが、税収の少なくなった先進国政府が消費税なるどこから編み出したか分からないような税法を作れたのもひとえにレジスターによる会計の電子化による計算の省力化によるところも大きく、消費の冷え込んだ街でお金の使い道を盗み見るのも貧しいと憐れまれようが生き残ったり蓄財したりするための貧民ながらの知恵なのだ。車を買っても旅に出られず住居の周りをパトロールする。

 パソコンを買ったのにそれでゲームをせずブログを書いてアフィリエイトというポイ活のウェブ版を展開したりするのも、人の事は笑えない生き方だったりするんですよ。


🄫1999-2023 id:karmen