普遍性という欺瞞

 そうだ、日記を書こう。

 とりとめもなく考えていると、何から考え始めたか考えている途中に忘れてとんでもない結論に至るならまだいいが、テレビを見たりコーヒーを飲んだり歯を磨いたりすると忘れてしまって、考え始める前と後ではすっかり考え方が変わっていても、ひとりで黙って過ごしているとそれは他者から観察される行動としてぼーっとしてテレビを見てコーヒーを飲んで歯を磨いたということであるので、特に議論をしたりゲームをしたりして勝敗のカタチになった時「なんでアイツが」となるが、テレビを見ていてもコーヒーを飲んでいても番組の内容やコーヒーの味わいではなく空想に夢中で、しかし歯を磨くと神経が刺激されて考え事が終わってしまうのだ。

 まず、考え始めの前には日本史の室町時代のページを読んでいた。跡継ぎ争いだ。それに併せて生物は遺伝子の乗り物に過ぎないという「そんなバカな」がトンデモ本であるという論者がいたことを思い出して、読書量が少ない頃に読んだ本のひとつであったため影響が色濃いが、ある生物グループが他の生物グループで同種であっても生存のために殺し合ってしまうのも人間なんだなぁと思うとともに、サルとしての人間は遺伝子を残すために食事と睡眠と性交を三大欲求とするが、特に近現代で利便性の中にいるひととか、そうではなく支配階級というか奴隷とか植民支配をして極楽の中にいる人はあるいは性欲的には満たされていても跡継ぎ争いが起こることはあるし、奴隷が子を持つことを許されたとしても、人生を貧困と労苦でもって抑圧されているわけで、互いの思想は違うし、それゆえ支配でも被支配でも共存と言って良いのか、命が保証されても思想の対立で起こる諍いはあるわけで、生物学だけで考える「ヒト」の中で人工物に満たされた環境で各々が見る「夢」というか主観的世界がその人の人生であるという考え方と、他人から観察した客観的な「そのひととなり」がどんなであったかが人生であるという考え方は相容れないし、史書は客観的事象について語る風で為政者の続柄的な正当性を知らしめるものであって、そこから学ぶものと言えば為政者になって争いごとの渦中に巻き込まれたら戦や暗殺で死ぬかもだから遠慮しておけっていう抑制であって、しかしそこを振り払って王様になれたらなれたで極楽なのかもしれない。

 だいたい、歴史を学ぶといつの人も変わらない部分があるってのが日本語で書かれた和文の幻想であって、義務教育という同じ教育でもって少年期を過ごして字が読めるからその考え方の範疇で普遍性の幻想を見ているだけだという考え方を俺はしている。

 そして普遍は流行ともつながりがあり、世代とその流行という意味で共通認識がありそれが仲間意識や帰属意識を生んで集団とか共同体を形作るわけだが、それは数として人数をみた大小で多数決的に市民権を獲得するという一次元の数の読み方から、日本に限っても例えばジャンプ6冊マガジン3冊でジャンプの方が偉いと誰かが言ってもジャンプ読者がバラバラでひとりきりの時にマガジン読者2人で挟み込めば仲間外れにできるわけで、天から地図で見てジャンプ読者がどう点在していてマガジン読者がどう点在しているか見られればマガジン読者にも勝ち目はあるかもというのが人工衛星時代の戦略なのであるが、SNSではマガジンが好き同士勝手につながって語り合って楽しめばよいという世界ではあると思うが、そこにフォロワーが6人のジャンプ読者が「俺の方が偉い」と絡んでも、読んでいるマンガが違うので数以外でその偉さは示せない。

 そうすると数と語り合いのどちらが複雑なコンテンツかという所で読んでもらって批判であっても共感であっても文章理解から人物理解につながってコミュニケーションに発展するというのは独り者のぼっち意識の高い俺にとってとても有意義なSNSなのであった。

 そうすると先に欺瞞であると否定した普遍性ではあるが、俺の体験した数々のゲームやマンガや本が工業製品で普及性があって、近くに友達が出来なくても離れたところで同じ体験をした参加者が理解を示してくれるという事が寂しさを紛らわせ、それゆえそれが幸福の種であるとしたら子供を全部とっ捕まえて同じ教育をするという左派思想の平等という所に一定の理解を示したというのが今日の落としどころになるだろう。

 実際、こうして文章を書くのもネットを通して読める人に出会えるからで、それが読める人がいるのも教育の賜物。だけど、文章を読んで感想を伝えるというのもそれはそれで高度なことなのかもだが、もっと直感的に絵画や写真や音楽など芸術と言われる分野でもって人の心を掴める人に対する羨ましさは単純にSNSなどの「数」の比較から来ているという所が俺の自己矛盾している部分なのであろう。

 だからして分からない人には分からないのをそのままにして分かる人同士で仲良くしてしまうのではなく、話題の輪を広げて多くの仲間を作るという意味ではゲームもマンガも統計的なヒットタイトルに話題を寄せるという事をしているが、これもシンボル化された俺が展開している普遍性の欺瞞なのかもしれないよな。そしてそれは楽しい。

 つながりは切っ掛けであって、人と人との深いつながりというのに憧れている。だが騙された経験から用心深くなって人を信用しきれない気持ちもどこからか芽生え、信用しきれないから自分で拒んでいるのに深いつながりに憧れるというのも自己矛盾だろう。

 今日の自画像。風邪は良くなりました。ご心配おかけしました。


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