「やってみる」の罠、本当に文脈に納得していますか?

 文章の中身とか文脈について考えてみた。ファクトベースつまり事実に基づいて書いた文章でも、文脈が無いと中身が無いと判断されることはある。これはどういうことかと言うと、ある種の文章は文脈を持って説得力を持ち、読んだ人が「なるほどそうか」となって行動に及んで初めて意味があるというもの。その意味で数学とかは抽象的で、x,y,zがどうなったか何なのか分からないという人も多いが、算数くらいだと数字は大きい方が良く、お店に万札を束で持って行って一番高いものを買うというような消費動向の人は値段の数字だけで説得力を感じてしまうものである。俺はその破壊を試みる。

 たとえば、この「魔法の薬」という本には様々な毒薬の製法や効能が書かれているが、別に毒殺を試みるではなく、知識のひとつとして持っておきたいと買ったもの。

 案外と良いことが書かれていて、この本を読んでから俺は朝食のトーストにマーガリンをたっぷり塗って食うようになった。本のネタバレは著作物としてマズいと思うのだが、まあ「醍醐」というと乳製品でバターかヨーグルトのような発酵食品であり、古代の天皇もそれを食って長生きしたという話が入っている。

 ここで気になるのが薬としての効能であるが「長生きした」と「天皇が食った」あたりから、それは良いものだろうと本で教えているのである。天皇が長生きしたという史実があり、その秘訣としてバターを食したと考えられる、お前も長生きしたいならバターでも食えという風に論理を組み立てることも出来るかも知れないが、まあそれを薬効の面から裏付けることが出来るかと言うと、薬がどうこうの事情で効いた証拠は天皇の長生きで、バターを食ったら長生きなのか、長生きした天皇の食い物を探るとその中にバターがあったということかというと後者が論理的に正しい。

 「天皇が食うんだから旨いものであろう」という推察で行動する人ももちろんいて、俺は公家の出身だが工場で働いていたこともあり、その中で缶コーヒーを自販機でどれを買うかというところを喫煙所で観察していた人がいて、俺が行く前はみな量で缶コーヒーを選んでいたようだ。キャップが付いている大容量のブラックコーヒーやロング缶のカフェオレが人気で、コーラも昔人気があったが虫歯になりやすくゼロカロリーに入れ替えられたが誰も買わなくなったというところだ。

 だが俺は特に何の思惑も無くジョージアのエメマンを買っていた。そうすると観察オヤジが真似てエメマンを買い、段々と喫煙所の中でエメマンが流行り、しまいに全員エメマンになり自販機のエメマンが2本になった。

 ところで、本にも文脈があり読んで納得して行動するこの行動が購買の場合には特にお金の事なので慎重になるべきではあるが、世の中にはハウツーとして売られている本で、やってみるための道具が紹介されており、やってみるためには本の写真の道具を買わないといけないから、遡って道具の広告を取り広告の道具をハウツーの文脈に忍ばせてやってみるために買うから道具屋から広告料を取って読者からも書籍代を取るような丸儲けの本がある。特にゲーム雑誌などその最たるもので、遊ぶためにはゲームも買わないといけない。これに騙されるのは子供だけだが、おおよそのハウツーはそうである。

 同じように、グルメ本とかもどう考えても飲食店の宣伝なのであるが、お店の人が真面目に料理を作って旨いという事が本のファクトを裏付けているのだ。

 その中で本に騙されまいと広告をはねつけてしまったら、ファクトの確かめようがないので読書の価値が半減する。最初から広告だと分かっていたら、読まないで済ませるというのもひとつだろう。その中でもし道に迷って本を手に取ったなら、広告と分かっていてもやってみるとひとつハウツーとファクトが経験値となる。

 だからといって、読んだものをみな試すようなやり方はそれはそれで世の中の商品を片っ端から試すなら、本でもって選別する必要性は全く無くなるのである。このバランスがいちばん難しい。

 そうなった時に、ふと思い出すのが工場の労働者のコーヒー缶の選び方「量で選ぶ」になる。味は食ってみないと分からないので、試す必要があるかもだが、いくつか試して納得したなら、その商品を量で買う。

 そんなわけで、ウチではバターではなくマーガリンで、それを5枚切りの食パンをトースターで焼いてたっぷり塗って食っている。コーヒーはインスタントの粉で入れて、砂糖はスプーン山盛り1杯、小分けにされたミルクを入れて朝食の出来上がりだ。

 喫茶店のモーニングを真似てゆで卵を加えていたこともあったが、最近は食わない。


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